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2019年5月20日

幻の城 吉村正一郎

 奈良に住んでいるというと、「奈良のどの辺で?」とよくきかれる。「多門町」だけでもいささか風情がない気がして、「聖武天皇と光明皇后のとなりです」と答えるが、奈良の地理にくわしくない質問者に、そんなことで合点がいくとは思われない。もっとも、ひとの住所をきく人はお巡りさんの職務質問のようなつもりはなく、お愛想の一つもいうくらいの軽い気持でたずねるのだから、それ以上ききかえすこともしない。わたしの方でも、相手にわかろうがわかるまいが、まあどうでもいいのである。
 奈良市多門町――これがわたしの仮寓のアドレスである。聖武天皇の佐保山南陵、光明皇后の同東陵、仲よくならんでいる二つの陵と佐保川の流れにはさまれたこの界隈は、東大寺戒壇院に近い水門町とともに、いまの奈良に残された数すくない静かな一隅だが、むかし江戸時代には、ここは『多門屋敷」と呼ばれ、奈良町奉行所の与力同心の住居とその畑地があった。そのころの古い地図を見ると、与力二名、同心二十四名がその家族とともに住んでいたことがわかる。
 『多門屋敷』がもうけられたのは、中坊美作守時祐が奈良奉行であった当初、承応二年(一六五三)からだといわれるから、三百年以上のむかしになる。将軍家綱のころである。その        『多門屋敷」も、明治維新とともに奉行所が廃止せられ、地方官僚とその一族たちはつぎつぎに四散する運命になった。それから明治、大正、昭和、と一世紀の歳月を経た今日、当時の与力同心の家系でいまもなおその子孫が引きつづき残っているのは、二十六軒のうちわずかに三軒にすぎない。むかしの古い屋敷は大正以後にあたらしく建てかえられて、現在わずかに旧幕時代の面影をとどめているのは、拙宅の一部と、表具屋をしている近所のKさんの家くらいのものである。
 むかしは『多門屋敷」と呼ばれ、いまは多門町というのは、正確には「多聞」とすべきであろうが、江戸初期にはすでに『多聞」が『多門」に簡略化された。その名の由来は、この与力同心屋敷の一郭の背後に、足利末期に松永弾正久秀が城を築いた多聞山があるからである。
 多聞山の名称は奈良市の北辺につらなる佐保山丘陵の一部を指す。それは京都から奈良に入る国道の頚部にあたる奈良坂の丘につづいている。この山の西の部分に聖武、光明の御陵があり、古くは山上に陵を護るために建てられた天平草創の眺望寺、のちの眉間寺があった。
 松永久秀が永禄三年(一五六〇)ここに築城するについて、眉間寺は佐保山双陵の西南に移された。これは移されたというよりも、追いやられたといった方が正確だろう。城をつくるのに邪魔になる寺を立ち退かせるくらいのことは、当時幾内七力国を領して羽振りをきかせた弾正久秀の勢威をもってすれば、小児の手をねじるよりもやさしかったにちがいない。足利将軍義輝をクーデターで殺し、大仏殿を戦火の犠牲にした戦国乱世の桑雄が神や仏を無視して憚らなかったとしても、かくべつおどろくにはあたるまい。下剋上と権力闘争に明けくれした時代のことである。しかし、さすがの実力者も聖武天皇の霊威にはえんり、瓜したのか、御陵は二つとももとの場所に残された。当時の皇室にはもとより何の力もなかったが、足利末期の強いもの勝ちの乱世でも、やはり天皇の精神的権威は認められていたのである。
 わたしは、朝早くだれもまだ目を覚まさない時刻に、近所の多聞山の上まで散歩に出かけることがある。新聞や牛乳配達の姿もまだ見えない。ひいやりする朝の空気の中を、山の頂きまでゆっくり歩く。ゆっくり歩いても十分とはかからない。
 山といっても海抜百メートルほどの低い山で、山というよりも丘である。その頂上の、松永の居城の本丸跡といわれているあたりに、戦後建てられた中学校の校舎があり、山の東北の部分は平らに整地されて、広い運動場になっている。
 多聞山の頂きに立つと、奈良の風景が一望のもとに見晴らされる。ここからながめる景色は見事である。眺望寺とは、まったくこの場所にぴったりのいい名前を古人はえらんだものだ。
 まだ眠っている人家の向うには、左から右へ奈良公園の緑のスヵイラインがほぼ同じ高さでのび、繊細なジグザグの線で中空をくぎっている。その日の好天を前触れする白い朝静謁が緑のカーテンの裾に刷毛目をつけていることもある。緑の塊りの上にもり上がる大仏殿の重層のどっしりした屋根。その右手には二月堂と知足院、手前には正倉院の新造の収蔵庫、この「群からひとり逃避したように、右手のはるか離れたあたりに直立する興福寺の五重塔これらが若草山から春日山、高円山へと起伏する山々のつらなりを背景に、日の出直前の明けそめる空にシルエットを描く。
 この丘陵の上はさして広くもないが、もしここが適切なプランによって開発されていたとしたら、奈良公園のほかに、もう一つ景色のいい名所、あたらしい市民公園ができたであろう。奈良の景色はここからながあるのが第一等だと、わたしはかねがね思っているのだ。戦後ここに新制申学が建てられたのは、六・三制の応急策として事情やむをえなかったことかもしれないが、あまり賢いやり方ではなかった、とわたしは思う。
 しかし、中学校は安っぽい建て売り住宅や観光旅館などよりははるかにましで、我慢のならぬ話でもないが、わたしに我慢がならぬのは、興福寺の五重塔の手前に、近ごろ新築された県庁舎の六階建てのビルが姿をあらわしたことである。あたかも嬋娟たる美女の前に力道山のような大男が立ちはだかったようなものだ。おまけに、この六階のビルには屋上に方形の塔屋がくっついていて、わたしが奈良第}等の佳景と推賞する閑雅な風致を半ば台なしにしてしまった。
 松永久秀が信貴山城についでここに城を築いたのは、堺と京都の中間の要衝の地に居をかまえて、経済と政治の中枢ににらみを利かせ、三好長慶を凌いで、あわよくば天下を制覇しようとの意図からであったろう。その多聞山城は美しい城であったらしい。
 永禄八年(一五六五)某日、それは多分その年の秋であったかもしれない。ポルトガル人宣教師ルイス・ダルメイダは久秀の家臣のキリシタン武士に案内されて、多聞山城を訪れた。彼は耶蘇会のイルマンらに送った同年十月二五日付の書簡に、そのときの印象を次のように書いている(耶蘇会士日本通信上巻)。
 「……この城は日本において最も美麗なるものの一にして、彼(ダルメイダを案内した武士)の仕うる君ダションドノ騨正という人の城なり。この人はいま七力国を領するにすぎざれども、日本全国において最も尊敬せられ、また全権を有する君なる三好殿及び公方様の臣下なれども、才智あり、彼らに服従するがごとくして彼らをして臣下のごと
く己の欲するところを行わしむ。……この領主は財力及び所領多く、多数の人服従せるを見て、国風によりてこの町(奈良)に築城するに決し、一つの山を選定し、石甚だ軟弱なるが故にこれを切りて数箇の塔を作り、ゴア市の囲中の三分の一に等しき野を残したり。……
 この別荘地に入りて街路を歩行すれば、その清潔にして白きこと恰も当日落成せしもののごとく、天国に入りたるの感あり。世界の大部分にかくのごとき美麗なる物ありと思われず。入りてその宮殿を見るに、人の造りたるものと思われず、之につき記述せんには紙二帖を要すべし。
 宮殿は悉く杉にて造り、その匂いは中に入る者を喜ばせ、また幅一プラサの縁は皆一枚板なり。壁は悉く昔の歴史を写し、絵を除き地は悉く金なり。……柱の中央には甚だ美麗なる大薔薇あり。家の内面は一枚板のごとく見え、甚だ接近するも接目を認むること能わず。また他に多くの技巧を用いあれども、予はこれを説明すること能わず。
……予は都において美麗なるものを多く見たれども、殆どこれと比すべからず。世界中この城のごとく善且つ美なるものはあらざるべしと考う。故に日本全国より只之を見んがために来る者多し。……」

 わたしは煩をいとわず、宣教師ダルメイダの報告書簡を長ながと引用したが、それというのも、十六世紀中頃に書かれたこのポルトガル人の印象記を読むたび、ありし日の多聞山城のすがたが壮麗な幻しのように、わたしの眼前に明滅する心地がするからである。「家は数階にして」とあるから、廓蓼たる青空の下、天守閣の白壁が秋の日ざしを照りかえしていたであろうか。「天国に入りたるの感あり……世界の大部分にかくのごとき美麗なる物ありと思われず……人の造りたるものと思われず、之につき記述せんには紙二帖を要すべし」と欧州人を感嘆させたのが在りし日の多聞山城であったのだ。
 
 戦国時代の武将が多くそうであったように、多聞山の城主も茶湯をたしなんだ。後世は彼を蹴榔捕茄・暴逆無道の悪者の典型に仕立ててしまっ旋が、彼はなかなかの文化人であったらしい。『松屋会記」に城内で催された朝の茶会の記事が二度見える。見晴らしのよい館で、大仏殿の甕や興福寺の堂塔伽藍を遠望しながら、さわやかな朝のひとときを風雅の遊びにすごしたのであろう。永禄六~八年、久秀全盛の時期であった。
 久秀の権力と栄華もながくはつづかなかった。さしもの彼もやがて登場する織田信長の新興勢力の前には心ならずも膝を屈しなければならなかったのだ。天正元年(一五七三)多聞山城は信長の手に明け渡される。いくばくもなく信長に叛いた久秀は、包囲された信貴山城に火を放ち、信長垂挺の的であったという名器、平蜘蛛の釜を叩きわり火中に投じて自刃する。天正五年(一五七七)城は解体され、殿舎は京都二条城へ、城石は大和郡山城へ移された。二条城に移されたという殿舎はのちに火災にあい、現在はその面影を見る由もない。
多聞山城はその城主と運命を共にして壊滅し去った。それはいまを去る三百八十七年の昔のことである。江戸時代になって城跡は奉行所の鉄砲場となり、山麓には『多聞屋敷」がつくられた。城壁の上に組み上げられた四層の櫓は多聞櫓の創始とされ、城は雄大美麗な近世城郭の最初といわれているが、当時の風姿をしのぶものはいまは何一つ残っていない。土塁跡や井戸跡、排水溝跡などがあるというが、それらもどこにあるのやら覚束ない。城は幻しのように消え、雑木と雑草に斜面をおおわれた多聞山のみが残された。
 久秀がその勢威を京畿に伸長してわがもの顔にふるまったのは、永禄十一年(一五六八)信長上洛までの時期であって、三好長慶の没後i永禄七年(一五六四)以後の数年間にすぎなかった。思えば彼の全盛時代というものも短かかった。古い言葉ながら樺花一朝の夢である。



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