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2020年1月8日

日々雑感 第十九話 及部十寸保

第十九話 「桜丘高校野球部創設の秘話」
 七月二十九日、岡崎市民球場において、第一〇一回全国高校野球選手権大会の愛知の決勝戦が行われた。初の甲子園へ の切符をかけて、桜丘と小牧の誉が闘った。結果は桜丘は一対八と敗れ、準優勝だった。
今大会では、春の選抜高等学校野球大会で全国制覇を成し遂げた東邦が、よもやの一回戦コールド負けという波乱に始まった。そして、東邦と共に、私学四強といわれる愛工大名電や中京大中京、享栄が次々に敗退。下刺上の試合展開に、 一体どの高校が勝つのか、皆目見当もつかない状態で、決勝戦まで駒を進めたのだから、喜びも格別だっただろう。
 それでは、おそらく私しか知らない桜丘高校野球部誕生の秘話を明かすことにしよう。
 一九八一年、桜丘高校教育後援会の会長を務めていたのは、藤原嘉治氏であった。藤原会長は、富山出身。当時、豊橋の洋服店マルマンの社長だった。人を逸らさない好人物。進路実績をあげ、桜丘の知名度アップに貢献したと、私を評価してくださり、しばしばご自宅に招いてくださった。教育後援会の広報誌「桜丘」の発行のため、多額の寄附をしてくださった。
 その藤原会長が、後援会の総会の席上で、私に向かって、「野球部を創れ。」とおつしゃった。けれども、私は、当時、 男子部部長と校長代理を兼任していて、多忙な毎日を送っていたので、無理な話であった。固辞する私に、会長は、「それなら、とにかく、この件は君に一任しよう。年内に監督・部長を決めてほしい。見つからなかったら、君が責任をとつてくれ。」と言われた。同席していた後援会役員は、私が引き受けたと思い、万歳三唱、私を胴上げする始末だった。
 私は困惑したが、ともかく、監督をさがそうと、熊谷理事に頼んで、当時有名だった中京大学滝監督に相談してもらつた。その一方で、私は、渥美政雄氏に高校まで来ていただいた。渥美氏は、戦前戦後、東邦商業、滝川中学、 一宮中学、 そして時習館高校で国語教師として勤めるかたわら、野球部監督となり、すべての学校を甲子園に送りこんだ名監督だった。プロ野球選手になった別所や青田を育てたことでも知られる。双方から、九州の日田林H高等学校で甲子園でも活躍した時川氏を薦められたので交渉に入った。部長は松崎潮雄先生。次は、選手さがし。吉田方の戸川先生を訪間、その年の中学三年生の状況を尋ねた。先生が言われるには、今年は大物ぞろいだからチャンスであると教えてくださった。しかし、実際には、海のものとも山のものとも知れないところに来る選手は少なかった。
 次に難関だったのは、グランドの問題。狭い運動場をいくつもの部が代わる代わる使用している。時間制限も厳しい。 ボールが当たっての怪我もある。そこに、野球部が入ってくることになったら困るというのは、ごく当然のことだった。
 後援会の次期会長松井茂氏が、豊川の河川敷を交渉してくれたが、結局、乗小路地内の空地にネットを張って、グランドとした。学校から十五分走れば着ける距離もよかった。いろいろな難間を解決し、いよいよ新一年生ばかりのチームができた。しかし、出ると負けの繰り返し。一度、東邦に勝ったご褒美に、招待試合を行うことになった。甲子園で活躍した東洋大姫路と享栄の二校。第一試合の東洋大姫路との対戦は、敗北はしたが、 一対二と、それでも試合になった。対享栄戦はひどかった。コールド負け。大差で、私はタオルを投げ、試合放棄を宣告した。招いておいて、放棄とは恥ずかしかった。松崎部長は「強いチームを作ります。」と言い続けていた。私の在職中に、ベスト8まで進出したこともあったが、なかなか実現は難しかった。実績があがらないので、泣く泣く監督交代を告げたこともあった。
 一九九九年に松崎先生がご逝去されてからは、直接、野球部のニュースを聞くことはできなくなったが、桜丘の野球部の戦績はずっと気にしてきた。二〇〇三年五月の愛知県大会で、創部以来の快挙を成し遂げたときは嬉しかった。(ただ、 これは甲子園に進める大会ではなかった。)父親が監督、息子二人が部員であった中川一家に注目した時期もある。しかし、夏の愛知県大会では、なかなか結果がだせていなかった。逆に、大会では「お客様」と呼ばれていた渥美農業や豊橋中央などの弱小チームにも追い越されかねない状況となり、歯がゆい思いをしていた。
 しかし、ここのところ、以前に比べれば、シード権を獲得して、少しずつ桜丘の名前が紙面に載るようになり、楽しみにしていた。特に、豊橋のリトルシニア出身で、攻守の中心である堀尾選手が入部してから、チーム力が一段と強化された。四番堀尾選手の後を打つ中神選手・岡本選手も打てるようになってきた。堀尾投手を助ける吉見選手も上達した。しかし、杉津監督は、今年のチームに「史上最弱」の熔印を押していたという。その指導の仕方が功を奏したに違いない。 志学館との対戦をテレビで観戦した。五回を終わったとき、私は半ば諦めていた。しかし、まさか、九回裏で同点に追いつくとは思いもしなかった。しかも逆転できるとは夢にも思わなかった。実際、流れが志学館に傾いたときもあったが、 テレビでは、ひ弱で幼く見えた選手たちが本気を出す姿に打たれた。久々に、熱い思いが私の中に流れた。
 残念ながら、この猛暑の中での延長戦が響き、決勝では誉に追いつくことはできなかった。しかし、選手たちの顔は明るかった。その輝かしい表情を見ながら、私は、創立時の苦労と、山あり谷ありの野球部の歴史に思いを馳せたのである。

2019年7月31日 記す



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