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2020年1月14日

日々雑感 第二十二話 及部十寸保

第二十二話 「父母懇運動の始まり」
 確か、一九七八年の年の瀬も近い頃だったと記憶している。私はその年に学年主任になったばかり。学級経営への関心が高まり、私学で始まった教育づくりを学びたい気持ちが強くなり始めていた。
 中京大学で開かれた「父母と教師の集い」で、私は、村田君のお母さんと一緒に壇上で話をしていた。そして、それが、 桜丘における父母懇運動のスタートだった。
 村田君は、私の担任する生徒だった。当時、私は、長期休暇には、生徒にどのように休みを過ごしたかを生活記録として書かせ、提出させていた。その中に、次のようなものがあった。「僕は、この休みを利用して、永平寺に修行に行きました。」驚いた。そこには、何故、永平寺に行ったかということが、びっしり書かれていた。それが村田君だった。事前に何も聞かされていなかった私は、彼に相談相手にしてもらえなかった寂しさもあり、ショックを受けた。
 村田君は、昼休みになると、クラスメイトから、「俺のパンを買って来い」と使い走りをさせられていたらしい。彼のお母さんは、学校と家が近いため、頼まれて、購買のパンの販売を手伝っていた。母親に、友人と争う姿を見られたくないと思った彼は、一度引き受けてしまった。すると、他の者からも、次々と、「俺の言うことは聞けないのか。」と言われ、 少ない時で七~八人分のパンを買いに走らされており、とても悩んでいたというのだ。精神的な圧力をかけられていたという。お母さんは「困ったことになったわね。」と一緒に悩んでくれたが、ご自分が、皆に知られた存在であるために、 下手に動けないとお考えになった。そのようなことが頻繁に起こるようになり、それは警察官であるお父さんの耳にも届く事態となった。「お前はパンを買いに行くのが好きなのか。好きでないなら、どうしてきっぱり断れないのだ。」とおっしゃった。「自分のパンをとられるよりは、買って運ぶ方がマシだ。そんなに苦痛じゃない。もう習慣になってしまったから、辛くはない。」と答えた彼に、お父さんは、「そうではいけない。きっぱりと断るべきなのだよ。」とアドバイスをされた。「人は皆、平等なのだ。人を東縛する権利は誰にもないはずだ。」と叱るように言われた。彼は、強くなりたいと思った。そして、その手段として、永平寺に修行に行くことにしたそうである。永平寺の修行は決して楽ではなかった。 朝早くに起床、庭を掃き、廊下を拭いて、雨戸の開け閉めなど、仕事は多く、きつかった。座禅では、何度、警策で叩かれたことか。彼の生活記録は、「新学期に入ったばかりなので、自分がどの程度強くなれたのか、まだわかりません。」という文章で締めくくられていた。
 私は、読んで、初めて、成り行きを知った。この問題を放っておけないと考え、一部始終を、学級通信に載せようと考えた。学級通信の作成はこのときが初めてだった。その頃、開かれた私学研修会に出席した同僚から次のような報告を聞いていたからである。
 「子供をよく知るために
 ①家庭訪間をして環境をよく知る
 ②学級通信を発行して、子供同士あるいは親と子の緯を強める」
 授業後のホームルームで、印刷物を片手に、教室に入っていった私を、生徒たちは緊張した面持ちで見つめた。学級通信を配ると、彼らはただちに読み始めた。いつもなら帰りを急ぐ生徒たちだが、このときは、誰も席を立とうとしなかった。
 パンを買いに行かせていた生徒たちは、自分の名前が学級通信に載ったことに、まず驚いた。どのような経緯であれ、 自分の存在が担任に認識されたことに心を動かされた。不思議と存在感を覚えたのである。事態を公けの場に晒した村田君を責める気持ちよりも、ここに自分は存在しているのだという気持ちの方が強かった。学級通信という魔力にひきおこされた不思議な現象だった。パンを買いに行かせていた生徒たちにも罪悪感はあり、それに意見を言えない、村田君のような生徒たちは更におどおどと縮こまり、今、思うと、クラスは二つに分かれていたように思う。それを、教師が、力で制圧するのではなく、活字という媒体を通して、生徒たちの心を動かし、クラスを明るくさせる、そして、よりよい学級運営を行う、この一連の事態は、その成功例となったのである。村田君が報告してくれたおかげで、私は、自分らしい教師像を見つけることができた。
 一方、辛い修行に耐えた村田君は、もちろん大きく成長した。事態をハラハラと見守るしかなかった、彼のお母さんは、親が関与することもなく、子供が厄介なことに巻き込まれることもなく、よりよい方向に解決できたことをとても喜んでくださった。その後も、私はたびたび学級通信を作成し、クラス作りに活用していた。
 秋になり、公立高校のPTA連合の事務局から、「今度、愛知大学に於いて、公立・私学の教師と父母の合同の研究集会を実施することになりました。貴校からも多くの方にご参加いただきたくご案内申し上げます。」という要請文が届いた。いつもは、こういった書類は目を通しても、あまり深く考えない方だったのに、この時ばかりは何故か、その研修会に関心を持った。教師と父母との連携で子供は成長していくことに気づき始めていたからかもしれない。どの学校から父母が多く参加するのか、自校からはどのクラスの参加率が高いのか知りたいと思った。そこで、研修会に実際に参加してみようと考えた。そして、父母にもぜひ出席してほしいと考え、電話がけを行った。自分の学年から五十人、他の学年から十人ずつ参加してくださることになった。これは、結果として、ダントツで出席率が高い高校という成績を残した。私は、桜丘を誇りに思った。
 そして、十二月、前述したように、桜丘では初めて、父母の方と教師が一緒に話をする機会を持つことになったのである。会場には、豊橋からバス二台で、父母たちが研修会に参加してくださった。そして、ありがたいことに、参加してくださった父母のみなさんは、ロ々に「これからも、こういう研修会のときは声をかけてください。必ず参加します。」と約東してくださった。更に、自分たちが率先して、その取り組みを応援していこうという強い気持ちを持ってくださった。
 次回には、バスは三台となり、その次には四台、バスの台数はどんどん増え続けていった。毎回、父母と教師の集いは名古屋での開催。桜丘は一番遠い。しかし、バスの中で話に花を咲かせる時間が長いことが、父母の交流を深めた。こうして、桜丘父母懇は、遠方にもかかわらず、一番出席率の高い元気の良い集団となった。それは学校をよくする原動力となった。

2019年8月20日 記す



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