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2020年3月19日

日々雑感 第三十三話 及部十寸保

第三十三話  「うたごえは平和の力」
            ~「遠ざかるまい この火から」に寄せる思い~
 二〇〇三年に勃発したイラク戦争に反対して企画した「平和を願ういのちの音楽会」。私の手を離れてからも、「セイブ・イラクチルドレン・名古屋」への寄付を目的に毎年開催される。東三河の地から、音楽の力で平和を訴える素晴らしいイベントである。十五年以上も継続できたのは、ヴァイオリニスト大竹広治氏を中心とする実行委員会の皆さんのご尽力によるところが大きいが、何よりも、この地の音楽家の皆さん・各合唱団の皆さん・そして「うたごえ運動」の皆さんが、ボランティアで参加してくださっているおかげである。
 「うたごえ」と聞いて思い出すのは、大学生の頃、私のポケットに入っていた青年歌集のこと。関鑑子(あきこ)が編集したもので、それを開いてはトロイカ・カチューシャ・りんごの唄・ステンカラージン・ともしび・仕事の歌・若者よ・原爆を許すまじ等、よく歌ったものだ。当時そういう若者は多かったと思う。
 関鑑子は日本のうたごえ運動の創始者といわれる。彼女は、一九四八年中央合唱団を創立し、美しい日本の歌・世界の平和を祈る歌・人々の生活の歌を柱としたうたごえ運動を広めた人である。そんなとき「砂川の勝利」といわれる闘いがあった。一九五六年、立川基地拡張のための強制測量を、学生三千人が地元砂川町の反対同盟と共にスクラムを組み「赤とんぼ」を歌って中止させたのだ。このニュースは基地反対闘争を激化させ、私は感動した。うたごえ運動は平和運動や労働運動と結びつきながら全国に広がっていった。その後一九七〇年代に入って運動は沖縄返還運動と結びつき、そして一九八〇年代になると反核・平和の草の根運動と呼応するようになる。戦争の悲惨さを告発し、平和への願いを歌い上げた合唱構成「ぞうれっしゃがやってきた」は二十年以上歌い継がれてきた有名な曲であるが、これは一九八六年藤村記一郎先生の作曲で誕生した。私が藤村先生やうたごえ運動の存在を知ったのは、一九九〇年のことである。その前年、桜丘高校の正門近くに星野村から分火していただいた原爆の火を保存する平和の塔を建立した。それが交流のきっかけになった。
 藤村先生の作曲した「ぞうれっしゃがやってきた」は、太平洋戦争の終末期から戦後にかけてのドラマを歌ったものである。戦時猛獣処分の命令に各地の動物園が追従したため、終戦時には名古屋の東山動物園にしか象がいない状況になっていた。一九四九年、東京の子ども議会は象を貸してくれないかと名古屋市に交渉する。しかし、高齢になった象を運ぶのは無理であった。それならば子供達を動物園に送ろうという代替案が提言されたが、当時の国鉄はGHQの管理下にあり、大人たちは子供達の夢を叶えるために奔走することになった。これが「ぞうれっしゃがやってきた」の物語である。
 一九九〇年八月、太平洋戦争の話を子供たちに語り継ごうと、品川から名古屋まで象列車の運行が企画された。豊橋は名古屋のひとつ前。そこで休憩をとる。その時間を利用して車中で子供たちに平和をテーマに話をしてもらえないかと、藤村先生から依頼を受けた。車掌さんのマイクを使って見えない相手に向かって話すのは、大変難しかったことを覚えている。
 平和の塔建立にあたり、生徒を中心に父母教師一体となった取り組みのドラマがあった。これを曲にしないかと、うたごえ協議会の武藤昌代さんから提案があった。高橋勇雄先生・松岡一夫先生・卒業生の高橋忠男君・新井美和さん達が作詞を、藤村先生が作曲をしてくださった。合唱構成「遠ざかるまいこの火から」の誕生である。
 一九九二年十一月二十八日、この歌の完成披露を桜丘高校体育館で行った。お祝いのメッセージが、豊橋市教育長古山保夫氏をはじめ、作家の早乙女勝元氏・山口勇子さん・愛知県原水協理事長毛受氏・ロシアウラジオストック市長・ニュージーランドウェリントン市長等から寄せられた。壇上には、九州から山本達雄夫妻・東京からは上野東照宮嵯峨宮司・「この火を永遠に」合唱団の柳沢代表らが上がり、生徒・父母・教員・卒業生父母が地域のうたごえサークルの人々と共に、藤村先生の指揮、下奥純子さんの伴奏で高らかに歌い上げた。この演奏会は大きな反響を呼んだ。この成功は、音楽科生徒をはじめ生徒・父母・教職員が一体となって努力したことにもよるが、「うたごえ」の皆さんの協力支援の賜物であるといえよう。そしてまた、それは東三河のうたごえ運動をそれまで以上に活発なものにし、それぞれの会の会員数は増加したのである。演奏会の模様は一本のビデオテープにおさめられた。私たちはその販売を兼ねて、その後名古屋・東京などのうたごえ祭典にも参加した。
 この十一・二八演奏会について、団長の疋田美知子さんは「生徒を主役に、父母教師・地域の方々と、ときめきを共有できたのが素晴らしい。」と語られた。また、藤村記一郎先生も次のように述べられた。「合唱に合わせて、素晴らしい平和の集いができて嬉しく思いました。高校生の参加で合唱にも一段と迫力が出ました。私も、日本のうたごえ祭典に参加しましたが、横浜アリーナに一万五千の人が集まりました。平和と命の尊さを叫ぶ響き声は、今や、すべての人のものになっています。私の指揮する『ぞうれっしゃがやってきた』はフィナーレを飾って、九千五百人の大合唱となりました。この平和合唱もきっと、学校だけでなく東三河だけでなく愛知全体そして全国至る所で歌われる日が来ると信じています。二十一世紀に向かっての人間の声であり、願いであり、歌であるからです。」
 その後二〇一八年の桜丘桜輝祭で、紀平先生のご努力によりこの歌が再び取り上げられた。出演者は少なかったが、一人一人が手作りの民族衣装を身につけて歌ったのは印象的だった。また、二〇一九年十月の塔建立三十周年記念式典が四百人の参加で催されたが、野畑先生のご指導で生徒二十余名が構成曲のうちの二曲を立派に歌った。「うたごえ」の有志の方も参加してくださった。私は、かつての団員である卒業生父母にお願いして協力を得た。「年齢のせいで声が出ない」とおっしゃっていた皆さんだったが、当日は明るい笑顔で昔を懐かしみながら歌われた。
 小野田さんのご努力で一か月後に行われた反省会は楽しかったが、「私たちもこのあたりで卒業したい。」というご意見もあった。確かにそのとおりなので、私は退職教員の中から参加者を募りたいと思っている。藤村先生もまた是非全曲通して歌いたいとおっしゃっている。
 トランプ大統領の無鉄砲ぶりを見たり、改憲改正論議で九条が否定される現況は、まさしく平和の危機である。「遠ざかるまいこの火から」が重要な曲になろうと思う。今こそ、全国の高校で桜丘高校だけが原爆の火を保存していることに誇りを持ちたい。吉村先生・野畑先生・松岡先生のお力を借りて、是非とも全曲通して披露する場をつくっていただきたい。そして歌い継いでいってもらいたい。「うたごえ」の皆さん、小杉先生、花井さんにもご指導をお願いしたい。東三河の美しい山野に、平和の歌声が響く日が来ることを心待ちにしている。
「うたごえは平和の力」 2020年3月5日 記す



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